[KW008] かんしゃくのくの字を捨てる

かんしゃくのくの字をすてる私は喜怒哀楽が激しく、喜ぶと楽しいはかまわないと思うのだけれど、
短気で怒りっぽく、哀しくなってすぐに泣く。

「怒」について。
高校生のときだったか、母方の祖母に面と向かって短気な性格を指摘され、
「あなたは喜怒哀楽が激しい。人に対して自分の感情を出し過ぎてはダメ」
と言われ、いたく反省した。
なんとかこれを克服しようともがき、結婚して数年経った頃に、祖母に、
「だいぶ変われることができたわね」
と言われたときはとても嬉しかった。

そうは言ってもやはり子どもに対してなど、ヒステリックになってしまうことがある。
しかしヒステリックになっても何ら良いことはない。
自分の(もとはと言えば些細な)怒りをぶつけたところで、結局、あとで後悔するのは自分。
そういえば、私は子どもたちが話を理解できる年齢になったころから、
「ちょっと怒り過ぎたな、あんな言い方をするべきじゃなかった」
と思ったら、子どもたちに素直にあやまることにした。
「ごめん、ママあんなに怒る必要なかった。ママが言いたかったのは〜こういうこと。わかってくれる?」
と話す。

自分の中に怒りの感情を持つのは悪いことではないと思う。
ビジネスにおいては時にそれが原動力となって、問題解決のアイデアが生まれ、行動できることもあるからだ。
だけど「怒」は表に出さずに自分の中にとどめておくべきだ。
それに「かんしゃく」は全く意味がない。
長野のある寺で、この言葉を聞いたときには、耳が痛くまったくその通りだと思った。
「かんしゃく」の「く」の字を捨てる。
「かんしゃく」と「かんしゃ」では雲泥の差だ。

ちなみに「哀」について。
「怒」について克服しようとした後、「哀」という感情にどうつきあおうか考えたあげく、
私は放置することにした。
哀しんでよいじゃないかと。
ただし、自分のことを哀れむという感情であればそれは捨てる。
「自分を哀れむ」=嫉妬に似た感情。
自分を卑下したり、人に嫉妬したり。
これが最も忌むべきものだと思う。
そんなことをしても良いことは1つもない。
それに自分はそんなに不幸であるはずがないのだ。
嫉妬した相手よりも、もしかしたら内面は幸福かもしれない。

トイザらスとかおもちゃ屋さんでよくみる光景だけれど、
子どもにヒステリックになっている親をみると、時にそれが親のエゴであるのが見えて
とても残念に思う。
その怒の感情は、きっと自分にはねかえってきてしまうから。

「おかーさーん、そんなふうに怒ったら、ブスになっちゃいますよー。せっかく綺麗にしてるのに〜」

いつもそう声をかけたくなる。。
自分のヒステリックのせいで、ブスになんかなりたくないわっ
私はまだ子育てを始める前に、怒りを表現することがいかに良くないか、気づいていたからよかったかもしれない。
おばあちゃん、気づかせてくれてありがとう 🙂

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