2011年3月11日 あの日のこと

昨夜は欧州に住んでいる友人と明け方近くまでチャット。
彼女は原発事故直後からずっと、放射能漏れについてかなり厳しくみていて、いつも海外からの情報を教えてくれる。
日本人おかしいんじゃないか、という。
このところ立て続けに震災や原発事故について思い出す機会があって、あれからまだたったの1年半なのに、自分も含めみんな、ちょっと忘れ過ぎじゃないか、と思う。
過去のブログを見たら、あの日のことを詳細に残していなかったので、もう一度、忘れないために、あの日のことを書こうと思う。

2011年3月11日金曜日

当時は横浜に住んでおり、いつものように朝、小学生を学校へ送りだし、幼稚園児をクルマに載せて会社に向かった。
幼稚園は会社の近くで、いつも会社でクルマを降り、そこでママチャリに乗り換えて、幼稚園へ送っていた。
午前中からアポイントがあり、私はクルマで都内へ。
その日は午前と午後に慶應の三田キャンパスで打ち合わせ。
慶應の前の1号線から東京タワーが綺麗に見えた。
私は東京タワーが好きで、天気のよい時や夜景が綺麗なときなどに、いつもパチパチと写真を撮っていたのだ。

東京タワー

青空に先端まで綺麗にまっすぐ伸びる東京タワー。とても凛々しい。
そんなことを思いながら眺めていた。

昼は知人と約束があり、六本木にいた。カプチーノ美味しかったな。

カプチーノ

ヒルズを出たのがたぶん14時前くらいだろうか。
次のアポイントは慶應大学の三田キャンパスで、打ち合わせは15時からだった。
ちょっと早めに、14時40分くらいにキャンパスについた。
そこで、いつものように駐車場にクルマを停めようと、徐行していると、なにやら様子がおかしい。
建物から人がたくさん出てきた。
自分のクルマも不自然な揺れ方をしている。
だんだん揺れが激しくなり、自分が揺れているんじゃないことに気づいた。
駐車場に停まっているクルマが、みな、ぼよんぼよんと勝手にジャンプしている。
勝手に跳ねるクルマなんて初めて見た。
どういうことなのか?
そこまで大きな揺れは経験したことがないから、まさかそれが地震による揺れだなんて気づかなかった。

とにかく自分もクルマを駐車して、打ち合わせ場所まで移動しようとゆっくり歩いた。
建物の下で、声をかけてもらう。
会議で同席される予定の方だ。
「いま建物には入っては行けないことになってるんです。宮崎さん、こちらに一緒にいましょう」
そう言っていただき、大銀杏の前のベンチで、待つことになった。
何度かの余震。電話はつながらず、情報源はtwitter。大変なことになっているらしい。
幼稚園にも小学校にも電話がつながらず、不安でたまらない。
HARUとも連絡つかず。twitterでつながっていた友人とだけ会話ができた。
DJ TAROさんが「東京タワーの先端が曲がっている」とtweetしている。
まさかと思ってみると、本当に曲がっていた。

結局建物には入れず、会議は延期しましょう、ということになった。
そのあと16時から別の会議があり、私はそちらの建物に向かった。
すると、この方はケロッとしており、ああちょうどよかった、あわててもしょうがないし、打ち合わせしちゃいましょう、という。
まだ揺れていたけど、30分ほど打ち合わせをした。

やっとHARUとも連絡がとれて、電車がとまっているというので、HARUが帰れなくなるだろうと思って、三田から溜池に向かった。
そのときは道はまだ問題なくて、溜池まですぐに到着した。
その当時HARUがコンサルでつめていた会社が溜池にあり、その会社の人やウチの会社のスタッフ、3名も一緒にクルマに乗って
いけるところまでいこうということになった。
ところが、1時間でやっと次の角まで進む、くらいのスピードで、もうまったく動かない。
私はとにかく早く子どもたちを迎えにいきたい一心で、どんなに時間がかかっても横浜に向かいたかった。
246の歩道は歩いて帰る人で溢れている。

19時になっても子どもたちと連絡がつかない。
私がそうtweetしたところ、斉藤英夫さんからmentionが入った。「お子さんの幼稚園、たぶん家の近くだと思うから代わりに迎えにいってあげますよ」という。
とりあえずSkypeで話そうとおっしゃってくださり、クルマのなかからSkypeでお話した。
斉藤さんとは、あの森高千里の名曲の数々をつくられた音楽家でギタリスト。
向谷倶楽部でお会いしてつながったが、それほど深い面識があるわけではない。
それなのに、奥さまの森まなほさん(まなほさんは浜崎あゆみのボイストレーナー)と一緒に、幼稚園へ迎えにいってくださるという。
とてもとても親切な申し出に涙があふれた。
(このときのことが縁で斉藤さん&まなほさんとは今も仲良くさせていただいている。本当にありがたいことです)

同時に、幼稚園のお友達のお父さんとtwitterで連絡がとれた。
迎えにいって、預かってくれるという。
ありがたい。本当にありがたい。
8時頃やっと幼稚園にも電話がつながって、友人のお父さんが迎えにいく旨を伝える。
幼稚園のまわりは停電しており、子ども達は、園バスのなかで待っているという。
きっと先生方がこわがらないように、紙芝居をしたり、おやつを食べさせたりしてくれているのだろう。

小学校にも連絡がとれた。
その時点で、その日に帰ることをあきらめざるを得ない状況だったので、
学校に泊めさせてもらうことになった。

とりあえず、子どもたちの安全が確保できてほっとした。

とはいえ、クルマはまだ青山のあたり。とてもじゃないけど横浜まで帰るのは無理。
それでも早く子どもたちに会いたくて、私は何時間かかってもクルマで帰りたいと思っていた。
同乗していた人たちは、うちのスタッフをのぞき、2名は歩いて帰るといって、クルマをおりていった。
HARUが、今日帰るのは無理だからあきらめようといって、
クルマを246沿いのコインパークに停め、歩いて溜池のオフィスに戻ることになった。
途中で地下鉄が動き始めたので、外苑前から銀座線にのり、溜池まで戻った。

とりあえず何か食べようということになり、コンビニに行くも、食糧はナシ。
あいていた韓国料理屋に入る。

その日はわりと寒い日だったのだけれど、冷麺をたのんだら、凍ったままの麺が出てきて凍えた。

外堀通りは相変わらずの大渋滞。

オフィスに戻って様子をみることにした。
いつも聴いているJ-Waveのラジオで、サッシャさんが通常どおり放送していた。
USTREAMもやってくれている。
サッシャさんの声を聞くととても安心して、ラジオ仲間とのtweetもとてもうれしかった。

午前3時前くらい。友人達のtweetで、道の混雑もだいぶマシになったとのこと。
溜池を出ることにした。
乗り捨てたクルマをピックアップして、高速道路ではなく下の道で横浜へ向かう。

その頃、いろいろあってあまりHARUときちんと話しておらず、はからずも久しぶりに2人だけで夜を過ごし、深夜にクルマで家に向かうのは、とても不思議な感じがしていた。

5時過ぎに家に着く。
免震構造のマンション。全く何ごともなかったよう。上層階でも、あれだけの揺れだったのにモノの落下はほとんどなかったという。
ヘトヘトに疲れており、子ども達もまだ寝ているだろうと思ったので、少しだけ仮眠。

8時に家を出て、小学校、幼稚園の友人宅に子ども達を迎えに行く。
元気な笑顔を見て涙が出た。
協力してくださった学校、友人たち、みんなに感謝の気持ちでいっぱいだった。

横浜に子どもたちをおき、東京で仕事をする。
そんなの当たり前だと思っていた。まさか迎えにいかれないことが起きるなど思いにもよらなかった。

この日の経験は、私に大きな決断を促した。

—–
あらためて、twilogを見返していたら、あの日のことがリアルによみがえった。
私は直接被害をうけたわけではない。地震にあった方、津波にあった方、その後の原発事故、
直接被害に合った方たちとは、比べられないほど、大した経験ではない。
だけど、この日に感じたことは絶対に忘れてはならないし、子どもたちにも、いつかまたきちんと話したいと思って、
ブログにまとめることにした。

このような思いにさせてくれた友人たちに感謝します。

3月17日、震災後初めて会社に出社したら、庭の椿が咲き誇っていた

3月11日のtweet
http://twilog.org/jitsuko/date-110311

3月12日のtweet
http://twilog.org/jitsuko/date-110312

震災から2週間後に書いたブログ
http://doubleincome.jp/?itemid=910

2 Replies to “2011年3月11日 あの日のこと”

  1. ishida

    はじめまして
    ブランディングで検索していたら御社のHPにめぐり会うことができました。
    とっても参考になり、一言お礼をと言いたくてコメントしています。

    筋が通ってきたようにおもいます。
    ありがとうございました

    • jitsuko

      ishidaさん、返信が遅くなり申し訳ありません。
      コメントいただきありがとうございます!
      今後ともよろしくお願いいたします。

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